「振動してはいけないもの」を、あえて振動させる。暮らしの“当たり前”を支えた小型モーター

携帯電話が、ポケットの中で「ブルッ」と小さく震える――。
会議中、電車の中、映画館、病院。音を鳴らせない場所でも、大切な着信に気づくことができるバイブレーション機能は、今では私たちの暮らしにすっかり馴染んでいます。その裏側に、Orbrayの小さなモーターがあったことを知る人は、どれほどいるでしょうか。
きっかけは、アメリカのモトローラ社から届いた一枚のファックスでした。
「小型モーターに、重りをつけたものを開発してほしい」
求められたのは、静かに、なめらかに回るはずのモーターを、あえて振動させること。
なぜ、振動してはいけないモーターを、振動させる必要があったのか。そして、その小さなモーターは、どのようにしてポケベルから携帯電話へと広がり、暮らしの“当たり前”になっていったのか。
今回は、1981年に入社し、製造の現場で振動モーターに携わってきた山内さんの言葉とともに、小型モーター開発の物語を追っていきます。
モトローラから届いた1枚のファックス
そこに書かれていたのは、小型モーターに重りを取り付けたものを開発してほしい、という依頼。静かに、なめらかに回ることが求められるモーターに、あえて重りをつける。当時、その依頼が何に使われるものなのか、山内さんたちにはまだ知らされていませんでした。
「最初は、どんなものに使われるんだろうと思いましたね」
ではなぜ、アメリカのモトローラ社は、日本の精密部品メーカーだった並木精密宝石に声をかけたのでしょうか。その背景には、当時、海外でも広く流通していた小型電子機器の存在がありました。
モトローラ社の技術者がその製品を分解した際、中のに入っていたモーターに刻印された「NAMIKI」という文字を見つけたのだといいます。
小さく、精度よく回るモーターをつくる会社が、日本にある。その発見が、モトローラ社からの問い合わせにつながりました。そして、その依頼を受けて振動モーターの開発に向き合ったのが、東京の研究開発と秋田の製造現場でした。一見すると不思議にも思えるその依頼は、のちにポケベル、そして携帯電話のバイブレーション機能へとつながっていくことになります。
ただし、当初から大きなヒットが見込まれていたわけではありません。むしろ、製品化に向けては「あまり売れないかもしれない」という見方もあったといいます。それでも、まだ世の中に広く浸透していなかった新しい使い方に挑んだことが、結果として多くの人の暮らしを支える技術へとつながっていったのです。
そして、そこには大きな技術的な難しさがありました。モーターは、本来、振動してはいけないもの。その常識とは反対に、あえて振動させるモーターをつくること。Orbrayの振動モーター開発は、そこから始まりました。

小さなモーターを、壊れずに振動させるために
「重りをつけて振動させるということは、モーターを破壊するのと同じなんですよ」
山内さんは、振動モーターの難しさをそう表現します。
モーターは本来、静かに、なめらかに回ることが求められるもの。そこに偏った重りをつけて回転させれば、軸受けには大きな負荷がかかります。振動によって摩耗が進み、寿命も短くなってしまう。ブラシや接点部分にも振動が伝わるため、ただ震えればいいというわけではありません。小さな部品として成り立たせながら、一定の寿命を保ち、安定して動き続ける必要がありました。
そのため、軸受け周りを強化し、ブラシや接点部分も振動に耐えられるように固定する。さらに、分銅と呼ばれる重りを軸にしっかり固定する方法にも工夫を重ねました。
山内さんによると、Orbrayではこの分銅の固定方法について特許も取得していたといいます。静かに、なめらかに回ることを追求してきた小型モーターを、あえて振動させる。それは、これまでのモーターづくりとは逆の発想でした。
けれど、その逆の発想が、やがてポケベル、そして携帯電話のバイブレーション機能へとつながっていきます。
ポケベルから携帯電話へ。小さなモーターが暮らしに広がっていく

こうして作られた振動モーターは、まずポケベルに使われるようになりました。それまで、着信を知らせる方法といえば音が中心でした。けれど、音を鳴らせない場所でも相手からの連絡に気づくことができる。振動で知らせるという新しい使い方は、少しずつ人々の暮らしの中に広がっていきます。
そして、その流れはポケベルだけでは終わりませんでした。やがて携帯電話が普及し始めると、振動モーターは携帯電話にも採用されていきます。会議中、電車の中、病院や静かな場所。音を鳴らさずに着信を知らせるバイブレーション機能は、携帯電話を持ち歩く時代に欠かせないものになっていきました。
山内さんたちも、最初からここまで広がるとは想像していなかったといいます。
「大ヒットするんじゃないかという感覚はまったくなくて、どこまでいくんだろう、どうなるんだろう、という感じでした」
実感が湧いてきたのは、生産の現場に次々と注文が入るようになってからでした。
「あのお客さんも取れた、このお客さんも取れたという話になって。国内のほとんどの電話メーカーさんから、うちに注文が来たんです。そこで初めて、これはすごい商品なんだなと思いましたね」
アメリカのモトローラ社から始まった振動モーターは、国内の携帯電話メーカーへと広がり、やがて多くの製品に使われるようになっていきます。
山内さんは当時を振り返り、こう話します。
「うちのモーターが、その業界のデファクトスタンダードになっているんだなという実感はありました」
完成品として表に出るものではない。けれど、ポケットの中で小さく震え、着信を知らせるあの感覚を、見えないところで支えている。小さなモーターは、ポケベルから携帯電話へと形を変えながら、人々の暮らしの中に静かに入り込んでいきました。
現場は、すごさを味わう暇もなく駆け抜けた
振動モーターの注文数は、一気に増えていきました。けれど、当時の現場にいた山内さんたちにとって、それは「時代を変える技術をつくっている」という実感よりも、目の前の生産に追われる日々だったといいます。
「目まぐるしく数が増えていくので、すごいことが起きていると感じる余裕すらなかったですね。もう生産するのに精一杯でした」
それまで日勤だけだった生産体制は、夜勤が始まり、さらに変則勤務へと変わっていきました。残業を続けても追いつかない。シフトを変え、生産体制そのものを変えながら、増え続ける注文に応えていく。山内さんは、その頃を「息つく暇もない状況だった」と振り返ります。
国内での生産は、やがて月50万個にまで増えていきました。そして1993年には、タイでの海外生産もスタートします。振動モーターは、Orbrayにとって海外生産のきっかけにもなった製品でした。
山内さんもタイの立ち上げに関わり、現地で技術を伝えていきます。そこで大きな壁になったのが、言葉の違いでした。
「ものを教えなきゃいけないんだけれど、言葉が片言で。通訳を通しても、その通りに伝わっていないことがありました」
言葉だけでは伝わらない部分は、ジェスチャーで伝える。絵を描く。作業指導書に写真を貼る。どうすれば同じ品質でものをつくれるか。現地のスタッフと向き合いながら、一つひとつ伝えていきました。
華やかな成功の裏側にあったのは、特別な物語として語られる時間ではなく、目の前の一つひとつを積み重ねていく現場の日々でした。注文に応えること。品質を守ること。同じものを、同じ精度で、作り続けること。
その地道な積み重ねが、ポケットの中で震える小さな「ブルッ」という感覚を、社会の当たり前へと押し上げていったのです。

ものづくりが好きな人たちが、時代を支えていく
振動モーターで培われたOrbrayの小型化や長寿命化の技術は、その後もさまざまな製品へと形を変えて生かされていきました。たとえば、テレビ放送用カメラのズームやフォーカスを支えるモーター。撮影時に雑音が入らないよう、静かに、なめらかに動くことが求められる領域です。
一見すると、振動モーターとは真逆のようにも思えます。けれど、振動モーターで向き合ってきた軸受けの耐久性や、部品の精度、長く安定して動かすための技術は、形を変えながらOrbrayのものづくりに生かされてきました。
かつて現場で手を動かし、試行錯誤を重ねていた山内さんも、現在は管理職として、採用にも関わる立場として、これからのOrbrayを担う若い世代と向き合っています。そんな山内さんに、「今でも、現場が恋しくなる瞬間はありますか」と尋ねると、迷わずこう返ってきました。
「ありますね。自分で手を動かしてものを作るのが好きだったし、どうやればいい製品が出来上がるんだろうって、常に考えながらやっていました」
その言葉からは、ものづくりに向き合ってきた人の実感がにじみます。山内さんのものづくりへの興味は、学生時代からすでに芽生えていました
高校時代には、自分の部屋に入る時、スイッチを押すとモーターが回り、鈴が鳴る仕組みを作ったこともあったといいます。
「スイッチを押すとモーターが回るので、そのモーターが回ることで鈴が鳴るみたいな感じに細工したんですよ(笑)。」
小さな仕組みを考え、自分の手で形にすること。思い描いたものが、実際に動くこと。その面白さを知っていた山内さんは、やがて携帯電話の「ブルッ」という、誰もが知る感覚を支えるものづくりに携わることになります。
そして今、若い世代に伝えたいこととして、山内さんはこう話します。
「生産に対しても、品質に対しても、妥協するのではなく、当たり前のことをしっかり当たり前にやる。それから、誰かがやるのではなく、他人任せにせず、自分から進んでやるということも伝えていきたいです」
人がやらないニッチな市場に挑み、小型化を追求してきたOrbrayのものづくり。そこにあるのは、派手な技術だけではありません。目の前の課題に向き合い、どうすればより良いものになるかを考え続ける人たちの姿です。
私たちがポケットの中で感じてきた、あの小さな振動。その裏側には、ものづくりを好きだと思う人たちの手と、当たり前のことを当たり前に積み重ねてきた現場の力がありました。これからもOrbrayは、見えない小さな技術で、人々の暮らしや時代の変化を支えていきます。
【アナザーストーリー】青森から来た青年を迎えてくれた、秋田の人の温かさ

「秋田のいいところは、人が優しいところですね」
そう話す山内さんは、青森県平川市の出身です。学校を卒業して間もない頃、仕事のために秋田へ。
まだコンビニも今ほど身近ではなかった時代、工場の近くにあった一軒の雑貨屋さんが、山内さんにとって暮らしを支える場所のひとつでした。食料品やお菓子を買いに行くと、お店のおばあちゃんが気さくに声をかけてくれます。
「今日は何してるんだい?」
そんな何気ない会話から始まり、時にはおまけをしてくれたり、お店の奥に上げてお茶を飲ませてくれたり、食事をごちそうしてくれたりすることもあったそうです。
青森から来たばかりの若い山内さんにとって、その温かさは、生活面でも仕事の面でも大きな支えになりました。
会社でも、年の近い先輩が声をかけてくれました。
「青森から来て、暇してないか?」
まだ車も持っていなかった山内さんを、秋田、山形、宮城へと一日で三県をまたぐようなドライブに連れて行ってくれたこともあったといいます。
好きなラーメンも、最初は先輩たちに連れて行ってもらって覚えました。なかでも思い出に残っているのが、十文字の「三角ラーメン」。煮干し出汁の、昔懐かしい中華そばです。
知らない土地で暮らし始める時、不安がまったくない人はいないのかもしれません。けれど、山内さんの秋田での日々には、声をかけてくれる人がいて、連れ出してくれる人がいて、温かく迎えてくれる場所がありました。
「秋田の人は、懐が深い。本当にいいところだと思います」
そう語る山内さんの言葉には、ものづくりの現場だけではなく、この土地で出会った人たちに支えられてきた実感がにじんでいました。







