「まだ世の中にない未来」を作っていた――Orbray 40年の挑戦と技術者たちの物語

「24時間働きなさい」――。今では驚かれるような言葉が、当たり前だった時代がありました。土日でも自宅に顧客から電話がかかってくる。海外出張先から、聞き取りづらい国際電話で日本とやり取りを続ける。5年かけた開発が、一瞬でゼロになることもある。
それでも、「まだ世の中にない未来」を作っている高揚感に包まれていた。
秋田県湯沢市で新たな本社建設が進むOrbrayは、そんな時代を駆け抜けながら、「切る、削る、磨く」という精密加工技術を突き詰めてきました。
普段の生活で、Orbrayが手がける製品を目にすることは少ないかもしれません。しかし、私たちが当たり前に使っているインターネットやスマートフォン、その“通信の裏側”には、Orbrayの技術が数多く使われています。
今回お話を伺ったのは、1981年に入社し、40年以上にわたってOrbrayの成長を支えてきた顧問・千原映二さん。
時計産業から光通信へ。バブル崩壊から世界展開へ。そして、AI・データセンター時代へ。
一人の技術者が見てきた、“まだ世の中にない未来”を作り続けてきた会社のリアルな物語を紐解きます。
「時計だけでは生き残れない」未来を賭けた、光通信への挑戦
千原さんがOrbray(当時はアダマンド工業)の門を叩いたのは、1981年のことでした。当時、日本の時計産業は大きな転換期を迎えていました。
「私が入社した頃、会社は時計の歯車を支える『軸受宝石』を作っていました。当時はクォーツ時計が普及し始めていましたが、まだ機械式時計が主流だった。でも、時計産業そのものが斜陽と言われ始めていて。会社としても、時計だけに頼らない新しい事業の柱を必死に探していた時期でした」
研究開発部に配属された千原さんが目にしたのは、今では想像もつかないような試行錯誤の連続でした。そこで進められていたのが、現在のOrbrayの主力事業である「光通信」用の部品開発です。
光通信とは、インターネットやスマートフォンの通信を支える技術のこと。動画視聴やSNS、オンライン会議など、今では当たり前になったネット環境の裏側には、Orbrayが手がける超精密部品の技術が数多く使われています。
そんな光通信を支える中心的な部品が、「フェルール」。光ファイバーを繋ぐための微細な穴が開いたこの小さな部品は、時計の軸受宝石で培った「硬いものに精密な穴を開け、磨き上げる」という技術の延長線上にありました。
「当時はまだ、光通信そのものが世界的に立ち上がろうとしていて、技術も日進月歩で変わっていく時期でした。私は光のフィルターやレンズ関係の開発からスタートしましたが、毎日が『まだ世の中にないもの』を作る高揚感に包まれていましたね」
「24時間働きなさい」の時代が、正解のない未来を作っていた
1980年代から90年代にかけての空気感は、猛烈そのものでした。千原さんは当時を振り返り、「今の時代では考えられないような働き方でしたね」と笑いながら語ります。
「とにかく休みがなかった。土日もお客さんから自宅に電話がかかってきて、そのまま打ち合わせが始まるなんて当たり前でした。でも、それを苦しいと思う以上に、面白さが勝っていたんです」
その面白さの源泉は、顧客と膝を突き合わせて行う、共同開発にありました。
「当時は国内トップクラスの通信機器メーカーさんなどと、毎日のようにお会いしていました。お客さんの要望を直接聞き、それに応えるためのデバイスを一緒に作る。今のようにリモートで効率よく……なんてことはできませんが、直接会って一つのものを作り上げ、それがうまく作動した時の『成功体験』は何物にも代えがたい喜びでした。失敗も山ほどしましたよ。5年かけて開発しても、動かなければゼロになる。でも、これがダメなら次だというスピード感とエネルギーが、当時の現場には満ち溢れていました」
世の中がインターネットの便利さを享受するずっと前、千原さんたちはそのインフラの種を、泥臭い試行錯誤の中で蒔き続けていたのです。

「良いものなら、世界に届く」Orbrayの技術が世界へ広がった時代
光通信がまだ未来の技術だった頃、Orbrayの技術は日本国内に留まらず、世界へと羽ばたいていきました。千原さんもまた、技術者として、そして営業として世界中を飛び回ることになります。
「初めての海外出張はイギリスでした。当時はインターネットもメールもない。一度海外へ出たら、連絡手段は電話だけ。時差がある日本側のスタッフを集めてもらって、音が遅延して聞き取りにくい電話で必死に技術的な打ち合わせをしました。一か月かけてヨーロッパ中を回ったりね。あの頃は航空券も今みたいな電子チケットではなく、紙の束だったんですよ。一枚ずつ減っていくのが楽しみでね。今では考えられないほどアナログで、ハードな旅でした」
そんな挑戦が実を結び、海外の大手通信インフラ企業にもフェルールが採用されるようになりました。
「良いものさえ作れば、会社の規模に関係なく世界の大手が認めてくれる。それが私たちの自信になりました。当時、光通信の分野では日本が世界のトップを走っていて、国内最大級の通信インフラ事業者や大手通信機器メーカーを中心に、そこへ我々の部品が組み込まれていった。世界中の海底ケーブルやネットワークの要所に、自分たちが関わった製品が使われている。表には見えないけれど、この社会を自分たちが支えているんだという誇りが、自然と芽生えていきました」
会社が揺らいだ時代を支えた秋田工場とOrbrayの底力
しかし、順風満帆な時期ばかりではありませんでした。1990年代のバブル崩壊、2000年のITバブル、そして後のリーマンショック。Orbrayもまた、社会の荒波に激しく翻弄されました。
「バブルが弾けた時は、本当に会社が潰れるんじゃないかと思いました。受注がそれまでの10分の1にまで一気に落ち込んだんです。どこもかしこもニコニコなんてしていられない。あの時のピリついた空気感は、今の社員たちは知らないでしょうね」
その苦境を乗り越える力となったのが、秋田の工場の存在でした。千原さんはかつて、秋田の横手工場に7年間、単身赴任しています。
「秋田の人たちは、とにかく真面目で保守的。でも、それがものづくりにおいては最大の強みになるんです。毎日同じことを繰り返すルーティン作業を、一切手を抜かずにコツコツとやり抜く。その誠実さがあるからこそ、世界最高水準の品質を維持できる。私は赴任中、『本社の顔色を伺うのではなく、現場の声をしっかり上げろ』と言い続けてきました。現場が一番よく知っているんだから、と。そうして現場が主体性を持って動き始めたことで、会社全体の体質が強くなっていったと感じています」
「まだ世の中にない未来」へ――Orbrayの挑戦は続いていく
現在、Orbrayは「第二の創業」を掲げ、大きな変革の時を迎えています。2026年には秋田県湯沢市への本社移転登記も予定されており、単なる拠点移動ではなく、地域の皆様と手を取り合った「共存共栄」のモデルを築こうとしています。
かつての「24時間働け」という時代は終わり、現在のOrbrayには、より自由でフラットな風土が根付いています。
「うちは役職ではなく、みんな『さん』付けで呼び合います。部長も課長も関係なく、誰とでもフランクに意見を交わせる風土がある。私の頃は上司の背中を見て覚えるしかありませんでしたが、今は先輩たちが『こうやると失敗するかもしれないから、気をつけなさい』と、経験を惜しみなく伝えてくれる。若手がやりたいと言えば、1〜2年目でも海外の展示会に行かせる。行かなきゃ分からないことも多いし、そこでカルチャーショックを受けて成長してくるのを見るのは嬉しいですね」

今のOrbrayの視線の先には、AI、データセンター、そして量子技術といった、次世代のイノベーションが広がっています。40年前光通信が、海のものとも山のものともつかない技術だったように、今また新しい未知の領域へ挑もうとしているのです。
「学生時代の勉強がそのまま仕事に直結する人なんて、そう多くはありません。大事なのは、そこで何を学び、どう向上心を持って一歩でも二歩でも上に行こうと思えるか。Orbrayには、それを支える技術と、挑戦を後押しする土壌があります。私たちの製品は、普段の生活で見かけることは少ないかもしれません。でも、あなたが今見ているスマートフォンも、インターネットの向こう側にある情報も、私たちの『切る、削る、磨く』技術がなければ届かないものなのです」
千原さんは、最後にこう締めくくりました。
「愛社精神なんて言うと古臭いかもしれないけれど、自分たちが作ったものでお客さんが喜ぶ顔を見るのは、やっぱり嬉しい。仕事をするなら楽しくやったほうがいいし、成功体験を積んでほしい。Orbrayは、ただ部品を作るだけの会社じゃない。世界を、そして未来を繋ぐ会社であり続けたいと思っています」
100年先を見据えて。Orbrayの新しい物語を共に創り上げる仲間を、私たちは待っています。
【アナザーストーリー】「住めば都」の秋田暮らし。

本編では、Orbrayの技術や挑戦についてお話ししましたが、ここでは少しだけ、千原さんの“秋田での日常”について――。
横手に赴任していた7年間。週末は、まさに温泉三昧だったそうです。有名な乳頭温泉郷の七湯を制覇したり、近所の温泉にふらっと立ち寄ったり。角館の桜や紅葉も本当にきれいで、秋田ならではの四季をたっぷり楽しんでいたと。
「自然しかないから(笑)」そう話しながらも、気付けば秋田での暮らしがすっかり日常になっていたことが伝わります。

食べ物で欠かせなかったのが、いぶりがっこ。農家のおばさんたちが作るがっこを食べ比べしながら、「自分好み」を探すのが密かな楽しみだったとか。今でも出張で秋田へ行く度に、つい買って帰ってしまうそうです。
あと、何度も通ったのが、わらび座。「秋田弁で繰り広げられる舞台には、どこか“ほのぼの”とした温かさがあるんです。特に小劇場は役者さんとの距離が近くて、本当におもしろいんですよ」と、奥様と一緒に足を運ぶことも多かったそうです。
「住めば都ですね。……雪さえなければ最高なんですけど(笑)」そんな千原さんの言葉からは、秋田という土地への愛着が自然と伝わってきます。
世界を支える最先端の技術も、こうした土地の空気や、人とのつながりの中から生まれているのかもしれません。


